ローマの休日50周年記念 デジタルマスター版

サイト画像

あらすじと配役が決まるまで、またその時代背景

ローマの休日について・・・誰もが知っている?!と言ってもいいぐらい、名作映画ですが改めてローマの休日をエピソードを交えて振り返っていきましょう~

タイトル ローマの休日 (原題:Roman Holiday) 主演者 オードーリー・ヘプバーン 監督 ウィリアム・ワイラー 脚本 イアン・マクレラン・ハンター ダルトン・トランボ  ジョン・ダイトン 原案 ダルトン・トランボ 製作ウィリアム・ワイラー 出演者 オードリー・ヘプバーン グレゴリー・ペック エディ・アルバート 音楽ジョルジュ・オーリック 撮影 アンリ・アルカン フランク・F・プラナー 編集 ロバート・スウィンク 配給 パラマウント映画 公開 1953年8月27日(米国) 1954年4月19日(日本) 上映時間 118分 製作国 アメリカ合衆国 言語 英語 製作費 $1,500,000

王女(オードー・ヘプバーン)と新聞記者(グレゴリー・ペック)との切ない1日の恋を描いている。タイトル名の通り、トレビの泉や真実の口など、永遠の都・ローマの名だたる観光スポットを登場させていることでも有名。

1953年度のアカデミー賞では、主役の新人オードリー・ヘプバーンがアカデミー最優秀主演女優賞を、脚本のイアン・マクレラン・ハンターが最優秀脚本賞を、衣装のイデス・ヘッドが最優秀衣裳デザイン賞をそれぞれ受賞。
アカデミー賞選考委員会は1993年にドルトン・トランボへ最優秀脚本賞を贈呈。

主演のオードリー・ヘプバーンはこの映画により、スターへの道を歩き出すことになりました。

ストーリー

舞台はイタリアで始まります。ヨーロッパきっての古い歴史と伝統を持つ某国のエレガントな王女アンは、ヨーロッパ各国を表敬訪問中でした。そして、最後の滞在国イタリアのローマでは、表見訪問による過密なスケジュールによって、疲労がピークに達し、謁見など自由のない生活への不満が溜まり少々神経衰弱気味になっていました。、ついにアンはヒステリーを起こしてしまいます。侍医はアン王女に鎮静剤を飲ませますが、あまりの疲労のため逆に目が冴えて眠れませんでした。侍従がいなくなって、アン王女はひとりで密かに城を抜け出して、街へ出て行きました。
ところが、街を歩いているうちに直前に打たれていた鎮痛剤が効いてきたせいで、無防備にも広場のベンチついうとうとと、寝こんでしまいます。そこに通りかかったのが、アメリカ人新聞記者のジョー・ブラッドレーだったのです。彼女を王女とは知らずに、無防備な姿を見かねて介抱するうちに、いつの間にかアン王女はジョーのアパートまでついて来てしまったのです。
翌朝になって彼女が王女だと、アン王女の素性に気づいたジョーは、特ダネのチャンスと思いアン王女の秘密のローマ体験という大スクープをモノにしようと、職業を偽って、ローマ見物の案内役を引き受けます。友人のカメラマンであるアーヴィングは隠しもった小型カメラで王女の行動をスナップしていきました。
アン王女はまず美容院で髪の毛を短くし、スペイン広場でジェラートを食べます。その後ジョーとベスパに二人乗りしてローマ市内を散策し、、真実の口を訪れて、サンタンジェロ城前のテヴェレ川でのダンスパーティーに参加するのでした。その様子をアーヴィングが次々にスクープ写真を撮っていくなか、永遠の都・ローマで自由と休日を活き活きと満喫するアン王女とジョーの距離は次第に近づいていくのであります。
一方で、アン王女失踪で大使館は大騒ぎです。世間に公表するわけにも行かず、本国から秘密探偵をよびよせて捜査に当らせました。夜になって、アン王女が遊覧船の上でジョーとダンスを楽しんでいるところへ、秘密探偵が現れます。河にとびこんで二人は追手の眼を逃れますが、いっしょにいる間に、二人は恋心を持つようになります。
恋は実らないもの。。。ジョーはアン王女を大使館に送りとどけ、特ダネ用のメモを引きさいてしまいます。数日後、アン王女の新聞記者会見が大使館で行われました。アーヴィングはあのとき撮影したフィルムをそっとアン王女に渡し、ジョーとアン王女とは、目と目を見合わせて、無言の別れを告げあったのでした。

オードリー・ヘプバーンはどうして起用されたの?!

最初に予定されていた監督はフランク・キャプラでした。そして、ローマの休日のヒロイン候補にはエリザベス・テイラー、ジーン・シモンズ。そしてケーリー・グラントが相手役として挙がっていました。キャプラ監督は高額の制作費を要求します。スタジオ側はキャプラを降板させ、当時売り出してきた映画監督のウィリアム・ワイラーを起用することにしますが、ある条件提示でワイラーは引き受けます。その条件は、主役をワイラー自身が選ぶというものでした。

当時、オードリー・ヘプバーンは映画界では無名に近い存在でした。その当時の女優はエリザベス・テイラーやマリリン・モンローなど、肉感的な美女がスクリーンを飾っていました。しかしご存じのとおり、オードリー・ヘプバーンは体型も他の女優と比べると、痩せすぎです。オードリーはワイラー監督が考えていた「アメリカ訛りでない英語を話し、気品溢れる女優」としてアン王女役のスクリーンテストに合格。。フィルムテスト撮影のとき、ワイラーは、カットがかかった後もカメラをまわしつづけて、オードリーの素の表情を撮らせました。彼女の素の姿を見て、オードリーにしよう!と決めたとも言われています。また、その頃ちょうどブロードウェイで上演されていた『ジジ』の主役を務めていたので、その演技を見たワイラーは主演として抜擢することの決めてになりました。グレゴリー・ペックは1946年に「子鹿物語」ゴールデングローブ賞 主演男優賞 (ドラマ部門)を受賞しており、俳優としてはすでにトップスターでした。しかし、彼女の才能を認め、新人であるにもかかわらず自分と同等のクレジットを与えることに同意したんです。

ローマの休日が出来上がる舞台の背景

1950年代初期の頃、アメリカ本国では「赤狩り」と呼ばれる共産主義者排斥運動が盛んに行なわれていました。映画産業でははハリウッド・テンと呼ばれた人たちがパージされいて、本作の脚本家であるダルトン・トランボも締め出されていました。タルトン・トランボは、そのため、偽名や他人の名前(友人の脚本家イアン・ハンター名義)で脚本を書き続けて、この脚本を発表したのです。この作品に最初に興味を示しのが、映画製作者兼監督のフランク・キャプラでした。しかし、高額な制作費にスタジオが難色を示し、キャプラに代わってウイリアム・ワイラーを監督に決定します。ワイラーも赤狩り(レッド・パージ)の政策に反対していた人物でした。トランボの思いをワイラー監督が引き継いで、「ローマの休日」が陽の目を見ることになったのです。

赤狩りのため、当時のアメリカの俳優や監督は、国内の監視を逃れて外国での撮影を好む傾向がありました。人件費が安く済むうえに、ヨーロッパからの移民が多いアメリカの観客がヨーロッパの文化を受容しやすかった点なども海外ロケの要因にあります。また、イタリア側も映画産業に対して協力的でした。これは観光産業が目的で、本作で紹介される名所はスペイン広場、パンテオン、コロッセオ、真実の口など枚挙に暇がありません。またヨーロッパの工業製品としてスクーターのベスパ、小型車のフィアットを登場させています。

何より大きな影響を持ったのは、ファッションモードが世界へ発信された点にあります。繊維産業により外貨を稼ぎたかった欧米のメッセージは大きな反響を呼び、ヘプバーンも「ヘプバーンと言えばジバンシィ」とされるほど、映画のみならずファッション革命のヒロインに成長していきます。日本でもヘプバーン・サンダルや、サブリナパンツなどの名前が今でも残っています。

製作途中には、当時勢力の拡大を狙っていた共産主義者によるテロが頻繁に起こっていました。また撮影中のローマは猛暑であったため、メイクが流れ落ちてしまし、頻繁にメイクアップをしての撮影となりました。

ハリウッド・テンとは・・・

赤狩り(レッド・パージ) の嵐が吹き荒れたアメリカで、1947年に行われたハリウッドの映画人に対する聴聞会に出頭して、言論の自由、表現の自由を盾に、実質的な証言を拒否して委員会に協力することを拒んだ10名の映画人のこと。1.アルヴァ・ベッシー (脚本家)2.ハーバート・ビーバーマン (映画監督・脚本家)3.レスター・コール (脚本家)4.エドワード・ドミトリク (映画監督)5.リング・ラードナー・ジュニア (ジャーナリスト・脚本家)6.ジョン・ハワード・ローソン (作家・脚本家)7.アルバート・マルツ (作家・脚本家)8.サミュエル・オーニッツ (脚本家)9.エイドリアン・スコット (脚本家・プロデューサー)10.ダルトン・トランボ (脚本家・映画監督)

赤狩り(レッド・パージ)

米ソの冷戦が激化していた40年から50年代に、非米活動委員会(HUAC)による極端な反共主義とこれに関連する一連の思想のこと。マッカーシズムは、第二次世界大戦後の冷戦初期にかけて行われたアメリカにおける共産党員、および共産党シンパと見られる人々の排除の動きをのこと。
1953年より上院政府活動委員会常設調査小委員会の委員長を務め、下院の非米活動委員会とともに率先して「赤狩り」を進めた共和党右派のジョセフ・マッカーシー上院議員の名を取って「マッカーシズム」と名づけらました。マッカーシーに協力した代表的な政治家は、リチャード・ニクソンとロナルド・レーガン。後にこの2人を熱烈に支持したのが、新自由主義の経済学者であるミルトン・フリードマンです。

監督ウイリアム・ワイラー

ウィリアム・ワイラー(William Wyler 1902~1981)は「ローマの休日」のほか、「必死の逃亡者」、「コレクター」、そして「ベン・ハー」などの名作を次々と世に送り出した名監督で、アメリカ合衆国を代表する映画監督の一人です。アカデミー監督賞を3回受賞、ハリウッド黄金期に活躍した名監督として「巨匠の中の巨匠」と呼ばれる一人です。そして、 完璧主義者として知られています。
細かい場面でも決して妥協することはなく、納得がゆくまで何回も撮り直す完全主義者で、「ナインティ・テイク・ワイラー」(90回撮りのワイラー)とあだ名されたほどでした。そのため俳優やスタッフとの間でよく摩擦を引き起こしました。

『ローマの休日』でも、ヘプバーンとペックがベスパ(スクータ)に乗ってローマ市街を走りまわる数分間のシーンの撮影に、実に6週間もかけたといわれています。

また、スペイン広場のトリニタ・ディ・モンティ教会の階段でヘプバーンがアイスクリームを食べるシーンがあります。この2分くらいのシーンの撮影に、何と6日間かけたのだそうです。面白いのは、何日にも分けて撮影されたため、背後に見える教会の塔の時計の針が、カットが変わるたびにずれています。


2013 roman-holiday.jp