ローマの休日50周年記念 デジタルマスター版

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オードリー・ヘプバーンの人生

オードリー・ヘプバーン(Edda van Heemstra)1929年5月4日誕生 1993年1月20日(満63歳没)
生い立ちは、イングランド人でイギリスの保険会社に勤める父ジョゼフ・アンソニー・ヘプバーン=ラストンとオランダ人の母エッラ・ファン・ヘームストラのもとに、ベルギーの首都ブリュッセルで生まれました。わずか生後3週間で百日咳にかかり、発作のために心臓停止状態となりましたが、母親の必死の心臓マッサージにより蘇生します。5歳でイギリス・ケント州にある寄宿学校に入学しました。
その頃に、両親は離婚してしまいます。ファシズムに共鳴した父親は家族から去っていきました。10歳のときに祖父のいるオランダへ移住し、6年間アーネム・コンセルヴァトリーでバレエの特訓を受けます。そして15歳には有能なバレリーナへと成長しました。
第二次世界大戦中はオランダで、密かにドイツのオランダ占領に対する抵抗運動の資金集めのために踊るなどして、反ドイツのレジスタンス運動に従事していました。オードリーの叔父と母親の従兄弟はドイツに対する抵抗者だったために、オードリーの目の前で銃殺されるという悲しい出来事がありました。彼女の異父兄弟もドイツの強制収容所に入れられてしまいます。オードリーは栄養失調のため急性貧血症でむくみ、呼吸困難、水腫(すいしゅ)にかかり、さらには黄疸が出る程の重体となりアムステルダムの病院に入院します。入院しても満足な治療を施せない物資不足の中、母親が必死で手に入れたペニシリンで九死に一生を得ることができました。

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16歳の時、オランダの病院でボランティアの看護婦をしていたが、マーケット・ガーデン作戦で大激戦地となったアーネムの病院で、一人のイギリス陸軍兵を介護しますが、その彼とは20年後に映画監督になってオードリー・ヘプバーンはの作品を演出することになる―『暗くなるまで待って』のテレンス・ヤングです。また、戦争中
食料がないときはチューリップの球根を食べ、飢えをしのいだといいます。

19歳の後半で、、ロンドンのマリー・ランバート・バレエ・スクールの奨学金を得ることができました。オードリーと母の2人でイギリスに渡り、バレエのレッスンを続けていきます。週末と休日には商業写真家のモデルのアルバイトをしたりして、母と娘はつましいながら心豊かな生活をロンドンで過ごしていました。

20歳、バレエのレッスンに励んでいましたが、ランバートからクラシック・ダンサーとして成功する才能がないと言い渡されたうえ、その頃オードリーの身長は170センチになっていたため、彼女自分でもソロ・バレリーナとしての挫折感を深めていきます。舞台「ハイ・バトン・シューズ」のコーラス・ラインのテストを受け、受験者千人の中から選ばれた10名のうちに入り、初舞台を踏みました。 291回続いたこの公演で、わずかではあるが定収入を得ることになります。この他にもショウをかけもつ一方で、人気の老性格俳優フェリックス・エイルマーの「ヘンリー5世」や「ハムレット」での演技に感動し、彼のもとで演技指導を受けています。

22歳、「Monte Carlo Baby」のロケで南仏モンテカルロに行ったとき、ブロードウェイの舞台「ジジ」の主役を探していた作家シドニー=ガブリエル・コレットの目にとまり、11月から翌52年5月まで舞台初主演を務めあげます。コレットが、オードリーを初めて見た際に、「私のジジを見つけたわ!」と言った有名なエピソードがあります。しかし、それまでの舞台で踊った事はあっても、あまり演技経験がないオードリーは、コレットからのブロードウェイでの主演舞台への出演オファーに後込みをしてしまいます。そんなオードリーにコレットは「踊り子は忍耐強いから大丈夫、あなたならできる」と彼女を説得し、イギリスの無名女優をブロードウェイ上演舞台の主役に起用しようとする事への不安を抱くアメリカの興行主をも説得して、無事ブロードウェイの主演となりました。

24歳、舞台「Gigi」を見た監督ウィリアム・ワイラーに認められ、「ローマの休日」に抜擢されます。ラブ・ストーリー「ローマの休日」で映画初主演。主演デビュー作でありながら、1954年度アカデミー賞およびゴールデン・グローブ賞で、各主演女優賞を受賞。一躍人気女優となり、彼女のファッションやヘア・スタイルも世界中で大流行します。もちろん、翌年の日本公開でも興行収入第1位の爆発的ヒットとなりました。
「ローマの休日」で共演したグレゴリー・ペックから、彼の友人で俳優や脚本、舞台演出も兼ね、スターダムへの道を登りつつあるメル・フェラーを紹介されます。メル・フェラーに誘われ、ブロードウェイで上演する舞台劇「オンディーヌ」にフェラー共演で主役出演します。人間と結婚することによってしか魂を手に入れることのできない水中の妖精を好演しました。この演技で最優秀舞台女優に与えられるトニー賞を受賞します。

25歳、ラブ・ストーリー「麗しのサブリナ」でパリモードから抜け出たような美人に変身、2人の兄弟のどちらからも愛される娘の役を演じ、アカデミー主演女優賞2度目のノミネートを受ける。 日本での興行収入はこの年の3位を記録します。9月、12歳年上のメル・フェラーとスイスで結婚。夫となるフェラーは、これが3度目の結婚で、フェラーの子供が4人いました。

29歳、ヒューマンドラマ「尼僧物語」で次第に教義への疑問を深め、悩むクリスチャンの看護尼を演じます。 役づくりのため訪れたコンゴの病院で、看護尼として働くシスター・アベに会い演技の参考としました。このとき、貧困ゆえに治療を受けられず短命に終わる子供たちを目の当りに見て心を痛めます。アカデミー主演女優賞3度目のノミネートを受けました。

30歳、ラブ・ストーリー「緑の館」で、メル・フェラー監督のもと、アマゾン奥地に追われて来た若者と愛し合う少女の役を演じます。しかし、批評家にも一般の観客にも評判は良くなく、2人がかりの映画製作はこれが最後の映画となりました。西部劇「許されざる者」でインディアンの血が流れる娘を演じます。ロケ地のメキシコで乗馬の経験がないにもかかわらずスタンド・インを使わずに、牧場で何時間も練習し予備撮影中、馬が急に頭を下げた拍子に馬の頭越しに地面に投げ出され、重傷を負ってしまいます。結局、1ヶ月余入院しますが、再び同じ馬に乗り撮影を終えました。入院中付き添った看護婦はコンゴの病院で出会ったシスター・アベでした。この年に長男ショーンが誕生します。
「オードリー落馬で負傷、入院」のニュースを見て、音信の絶えていた父親ジョゼフ・ヘプバーン=ラストンから入院先に手紙が来ました。退院後、この手紙を手がかりにアイルランドにひっそりと暮らしていた父の元を訪ねて、10歳のときロンドンの空港で別れて以来の再会を果たします。それ以後、父が90歳で亡くなるまで生活の援助を続けました。

32歳、ラブ・ストーリー「ティファニーで朝食を」で同じアパートに越してきた小説家と恋に落ちる純真で愛らしいコール・ガールを演じ、アカデミー主演女優賞4度目のノミネートを受けます。

34歳、1963年5月29日、彼女の大ファンであったジョン・F・ケネディ大統領の46回目の(その年に暗殺されたので最後の)誕生日にニューヨークのホテルで開かれた誕生パーティに招かれ、「ハッピー・バースデー、ディア・ジャック」と歌って、招待のお返しをする。(前年1962年の誕生パーティではマリリン・モンローが招待され歌っています。)

35歳、ブロードウェイのロングラン大ヒットミュージカルの映画化「マイ・フェア・レディ」で、言語学者の指導により社交界の花形に変身する貧しい花売り娘を演じる。 同作品は作品賞を含めアカデミー8部門を独占し、興行的にも大ヒットします。ゴールデン・グローブ女優賞受賞。

38歳、サスペンス「暗くなるまで待って」で麻薬を縫い込んだ人形をめぐる盲目の人妻を演じ、これまでのお嬢さん女優から脱皮をはかり、芸域を広げる。1968年度アカデミー主演女優賞に5度目のノミネートを受けました。夫メルの女性問題が発覚し離婚。私生活の悩みから50kgあった体重が43kgに落ちてしまいました。

39歳、エーゲ海クルーズに招待され、船上で知り合ったローマ大学の助教授で女性の鬱病専門のクリニック院長でもある若くてハンサムな精神科医、9歳年下のアンドレア・ドッティとスイス、モルジュの町役場で結婚式を挙げました。生活の場をローマに移し、長男ショーンはローマのフランス人学校に入ります。

40歳、1970年、次男ルカ誕生します。

42歳、クリスマスにテレビ放映されたユニセフ製作「A World of Love(1971)」にゲスト出演、イタリアのユニセフの活動を報告します。

47歳、ローマで有名人を狙う犯罪が多発する中、ショーンとルカが路上で尾行されているという警告を警察から受けます。続いて不審な電話が何度かかかってきたため、2人の子供をスイスの家に移し、学校も転校させました。このため、スイスの子供たちとローマの夫との間を頻繁に往復する生活になりました。

51歳、父ジョゼフ・ヘプバーン・=ラストン没(享年90歳)。

53歳、女遊びを男の甲斐性と考え、それを実行する夫アンドレアの長年の素行が改まらずついに離婚します。

ロサンゼルスの親友の内輪のパーティで、テレビの人気西部劇シリーズのスターで、7歳年下のロバート・ウォルダースと出合います。ロバートは妻を亡くして間がなかったが、戦時中ごく近くに住んでいたことも分かり、互いに生活の相談などをしあううち2人の距離が接近していきます。

55歳、同居の母エラ・ファン・ヘームストラ没(享年84歳)。

59歳、子供好きで他人の子供にも深い愛情を惜しみなく注ぐ性分ゆえ、1988年 国連児童基金特別大使の任務を「人生の最終章でもらったボーナスのよう」と喜んで引き受け、世界の子供たちをあらゆる困難から救うための活動に専念する。4年間にエチオピア、トルコ、南アメリカ、中央アメリカ、スーダン、バングラデシュ、ヴェトナム、ソマリアと巡礼の旅を続け、各地の悲惨な状況を世界の人々に訴え、注目を集めます。

60歳、森林火災で命がけの活躍をする消防士の愛を描いたファンタジー「オールウェイズ」に天使役で特別出演。これが映画の遺作となりました。

63歳、1992年夏、ソマリアでのユニセフ活動を終えてスイスの自宅に帰り、数週間休養した後、ロバートとニューヨークでの催しに出席するため、10月にアメリカへ出発するが、ショーンに会うために立ち寄ったロサンゼルスで腹部の痛みがひどく緊急入院しました。診察の結果、悪性腫瘍が発見され11月2日、結腸部分切除手術を受けました。

63歳、1993年1月20日、スイスの自宅で家族に見守られる中、穏やかに息を引き取る。病名は結腸ガン。

他界の翌日1月21日は偶然、テレビ・ドキュメンタリー「Gardens of the World」の初放映予定日で、予定通りオードリーが庭園を案内する姿がテレビ放映されました。

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